世界史Civ事典

日本の鎖国政策

長崎の出島
長崎の出島

 シヴィライゼーションの日本文明は鎖国大好きで、孤立主義である。これは徳川幕府が鎖国政策をとっていたことが理由だと思われる。

ポルトガルとの貿易

 日本とヨーロッパの交流が始まったのは、ポルトガル船が種子島に漂着した1543年のことである。ポルトガルは中国のマカオを東洋の拠点にしており、日本はポルトガルを通して中国の絹を輸入するようになった。

 カトリックのポルトガルは、キリスト教の布教活動に熱心だった。日本の大名は貿易を目的としていたが、宣教師は布教を目的としていた。九州でキリスト教が一大勢力になり得る力を持ったため、豊臣秀吉はキリスト教を禁止した。

島原の乱

 江戸幕府も布教に熱心なスペインとは国交を断絶し、ポルトガルには長崎の出島でのみ貿易を認めた。一方、プロテスタントで貿易を目的としてやってきたオランダやイギリスには商館の建設を許可する。

 1637年、島原の乱が起こった。

 島原の乱は重税に苦しむ市民が起こしたものだったが、その指導者にはキリシタンに人気のあった天草四郎が選ばれた。反乱軍は島原城を包囲し、富岡城を落城寸前まで追い詰めた。

ポルトガル追放と鎖国

 島原の乱は日本史上でも最大規模の反乱だった。

 この反乱の精神的支柱となったキリスト教を幕府は危険視する。こうしてポルトガルは追放され、ヨーロッパの国で日本との貿易が許されたのはオランダだけとなった。オランダの商館も出島に移され、貿易は厳しく管理されることになった。

 というわけで、日本は必ずしも好んで鎖国政策をとっていたわけではない。事実、鎖国中もキリスト教と関係のない中国、朝鮮、琉球とは交流を続けていた。